ヒネクレ仔ぶたはブーと鳴く。

Yahoo!ブログ閉鎖により、漂着したヒネクレ仔ぶた(管理人)が、徒然なるままに、愛のままに我が儘に書きたいことを書きなぐるブログ。漂流中に細胞分裂し、アメーバブログにも漂着している。

5年前のあの日…。

関東大震災から今日で5年。
もう5年か、まだ5年かは人それぞれだと思います。

管理人にとっては、もう5年ですかね。
5年で色々変わりました。
勤務地、部署、人間関係、生活環境…。

まあ、勤務地はビルが変わっただけで新宿だし、部署は変わっても仕事内容は大差ないし、人間関係や生活環境も劇的な変化はないですね。
みんな生きてるし自宅も倒壊したりはしてません。
多少入院したり、家に介護用の手すりを付けたりはしてますが、無事です。

携帯電話はガラケーからスマホに変わってますが、管理人のガラケーは今もバリバリ現役です。
ゲームはPS3主流からPS3切りに変わり、家庭用ゲームよりスマホゲームばかりになってますが、PS4が本気出して来はじめてます。

震災後、会社ではヘルメットや防災セットが配布
されたり、地震発生時の生存確認システム導入、定期的な避難訓練が実施されるようになりました。
海に近い地域は電信柱に海抜○mの表示が付けられたり、海沿いには津波用の避難場所が設置されました。

でも、もしまたあの日と同じような地震が起きたら…
管理人はまた確実に帰宅難民でしょうね。
さすがに、もう駅から閉め出されたりはしないとは思いますが、電車は全て止まり、バスやタクシーを待つ行列ができるものの大渋滞で歩いた方が速い状態になり、回線がパンクし携帯電話は繋がらず、公衆電話を探しさ迷い見つけても大行列。

避難所があると言われても、やはり自宅に帰りたいと思うんです。
あの日も、新宿駅前で御苑に向かって下さいと言われても向かう人は少なかった。
そもそも場所がわからない人も多かったと思います。
さすがに新宿から千葉まで歩いて帰るのは無理だった管理人は、同僚たちと南大塚に自宅のある同僚の家に徒歩で向かってました。
途中、何回か携帯の緊急地震速報が鳴っては地面が揺れ、時には悲鳴も聞こえました。

歩道から溢れる歩行者、渋滞で全く動かない車、公衆電話の大行列、剥がれた壁や割れた窓ガラス、食料の消えたコンビニ、それらを横目に歩き続けてました。

立ち寄りはしませんでしたが、水や非常食を配布している場所や休憩できますと書かれた場所、個人宅にもかかわらずトイレや電話を貸しますと張り出している家もありました。

歩きながら、世の中優しい人もいるんだなと考えてました。
当時、震度7という情報は聞いてましたが津波の情報は全く知らず、管理人は同僚たちと早めの夕飯をしっかり食べ、家族とも無事連絡が取れ、同僚宅に泊めて貰えることが決まっていたので割と呑気に歩いてました。

同僚宅に着き、テレビを見て初めて津波のことを知り、火の海と化した気仙沼を見ました。
言葉もなくただテレビを見つめてました。

翌日、どうにか自宅に帰宅できましたが、地元の電車は軒並み運転中止、輪番停電もありましたね。
ガソリン不足もあり、車がないと生活できない田舎はガソリンスタンドに行列ができました。
食料や生活用品も不足し買い占め問題もありました。

直接、地震の被害はなくても交通や物流、生活には大きな影響が出ました。

5年経って色々忘れてしまった人も多いでしょう。
母に聞いたら、結構忘れてました。

管理人は覚えてます。
地震発生時の上司の言葉。
『モニター押さえて!』
それに対する隣の同僚のツッコミ
『モニター!?』

忘れられません。
今だから笑い話にできますが、当時は驚きましたからね。
管理人たちはモニター以下かと。
ちなみに二度目の揺れの際は『モニターはいいから机の下に隠れて』でした。
尚、みんな言われる前にモニター押さえてました。

ホント、忘れられない思い出です。